亜細亜はどこへ「続く」か

 「先の大戦において日本が主張した<大東亜共栄圏構想>は、当時の社会的正義感に基づく理想論であった」というノリの論説は(そういうところでは)よく聞かれるものである。
 しかし、そこから、話を
 「残念ながら、日本は戦争に敗れ、その理想の実現に挫折した。しかし、中華人民共和国政府こそは、大規模な亜細亜圏の統治・近代化を(非常に遅々とではあるが)進め、現在では、一番、<大東亜共栄圏構想>を実現しうる可能性を持っている」
 というふうに展開される論は、あまり、聞いたことがない。
 ましてや、そこから、
 「かつて、<大東亜共栄圏構想>を世界に問い、敗退した日本人として、現在それを実現し得る中華人民共和国と共に、成し得ることとは何か」
 と進んでいく論考は、無い、かどうか知らないが、まあ、無い、と仮定して、そこから先の論理を考えてみた。
 ・・・考えてみると、日本人は、支那文明から漢字を頂き、それをベースに漢字かな混じり文へとカスタマイズして今も尚継続使用中である。
 もうひとつ支那文明からイタダイタものがある。
 天皇制だ。皇帝の・ようなものとして「日の沈む」大陸から輸入して、以来云百年、これからも、天皇制は「続ける意味があるのか」と言われながらも、聖火リレーのように、子々孫々代々脈々と続いていくだろう。
 漢字と天皇制。
 中華人民共和国主体で進む<大東亜共栄圏>に住まう<極東の人民>として、我々、日本民族が成し得る貢献とは「難しい漢字を使う」「いつまでも天皇を崇め奉る」ことではないか。
 近代化のなかで忘れられがちな亜細亜民族の魂のふるさと(=漢字&皇帝)の継承。
 つまり、三丁目の夕日国家、とでもいうべきか。
 以上、過去の大東亜共栄圏構想を(条件つきで)肯定するなら現在の中華人民共和国も(条件つきで)肯定し得るのではないか、という論理の可能性について、夢想してみました。