納涼小説「二回間違えた男」

 今は昔、校長なる男、小学生に囲まれ小学校にその生を、眼鏡かけたまま営みつつ、ある日、校舎から校庭を抜け校門に向かい校歩するに、
やおら一人の翁があらわれ来たりて云うよう

「わたくしは、校庭の清掃をしておりますものですが、
先日の夕暮れ時、落葉を掃いておりました折、
いつもならば私のほかは誰の姿も見られぬというのに、何処からともなく四五人の男児があらわれましたので、何やら常ならぬ事よと思い思いしておりましたところへ、それら男児たちは、何かは分かりかねましたが何かの球技にでも用いられるのであろう、ひとかかえくらいの球を取り出だし、わたくし目掛けて打ち投げ打ち投げするので御座います。
 恐ろしさや痛さのあまりの大きさゆえに、私は地に伏し、頭を抱え、ほとんど絶叫致しました。
 男児らはやがてばらばらと逃げ去りましたが、奴等が一言も発せず全くの無言であったことが、なお一層恐ろしいと思われました。
 既往は咎めずといえども前途を憂わないでいられましょうか」
 
 校長は、老人の憤激を如何にも、と、また、この翁の右足不自由なるも市井の求めに応じ自ら進んで無償で清掃に勤しむその心根をあはれに尊いものと、思しめして、踵をかえして校長部屋に戻るや、机に向かいて物狂おしい勢いで「おしらせ」を書く。

 ・・・あまたある市井の様々なる人々おのおの銘々それぞれの家にて、子息子女のランドセルから「おしらせ」を取り出し、その校長の言葉を読む。
 老人の悲劇に涙を流す家あり、男児らの悪行に怒りを覚える家あり、それらのなかなるある家の愚かなる家長、校長が文の次なる一節を目にし、座りし小椅子から思わず立てり。

「残念な思いで一杯です。子どもたちの「心の闇」を見た思いがしました。この行動は、動物虐待やいじめにもつながるものです。」
 いじめはさておくとしても、幼群が孤老を見下ろし蹂躙する卑劣を前にそこであえて「動物」を見上げ思いやる校長の心のあまりに寛らかなるに、この愚かなる家長嘆息して曰く

「無残なり。気の毒なり。
 老人は二度打たれり。
 一度目は、悪童の悪意にて。
 二度目は、善公の善意にて。
 子の闇は師の影と、ひと曰はば、校長は二度過てり、と吾謂はん」

 と。