「落語ブーム」と岡田斗司夫

 「落語ブーム」について「そんなものは無い」と思っていたが、最近「こういうことか」と思うことがあったので、少し書きとめておく。
 「落語ブーム」とは、主にテレビドラマ『タイガー&ドラゴン』(2005年放映)の周辺で、交わされていた言葉である。
 マンガ『ヒカルの碁』が少年ジャンプで人気を集めた時にも「囲碁ブーム」という言い方があったが、「落語ブーム」も同様に「メジャーなメディアで地味なジャンルが取上げられる驚き」が背景にあったように思う。
 私はそんなブームは無いと思っていたが、まあ、少なくとも

 <一部の人々が「そういえば、落語というものが、現代日本にあったんだなあ」ということを思い出したり初めて知ったりした>

 という現象があった、ということは確かであろう・・・。しかし、その現象の中心に、特定の落語家や噺の内容についての興味があるわけではなく、「アロエブーム」みたいに、漠然と「落語」への好感が発生した、というようなものであろう、と勝手に判断していた。

 と、いった状況に変化が生じたのは、「岡田斗司夫氏が落語をしている」という事実を知ってからである。

 岡田斗司夫プチクリ日記
 2006年12月 3日 (日) 落語についてアレコレ考える

 http://putikuri.way-nifty.com/blog/2006/12/1117_f259.html 

 岡田氏が実践しようとしている「新しい落語と落語家の定義」の「新」とは、従来の「新作落語」の「新」と何が違うのか。違わなければ、さして「新しい」とは言えない。そして、人々の反応は(今のところ)「さして違わない(違いがよくわからない)」と結論しそうな勢いである。

 しかし・・・(以下が私の仮説である)

 落語はジャンルである。新しい落語とは、落語としての新しい様式(ジャンル)が創り出されて、はじめて成立する。しかし、落語、に限らず一般に表現と呼ばれるものには、メディアと呼べるような側面がある。送り手は、何かを、落語を通じて、実現する。受け手も、何かを、落語を通じて、認識する。「何かを、××を通じて、実現したり認識したりする」という××の箇所に「落語」は入る、すなわち、落語にはメディア的な側面があるのだ。
 ・・・であるのに、落語の様式性へのこだわりが、落語の活用・流通を妨げている、メディアとしての落語の門戸を、新たに、話し手・聞き手の口や耳の前に開くのだ・・・という発想で落語に取り組むとするならば、それは確かに「新しい」といっていいのではないか。
 そこで、ハッと気がついたことには、「落語ブーム」と呼ばれた現象は、落語ジャンルへの理解や興味の広まり深まりで評価するべき筋のものではないのではないか、と、むしろ、何も知らない白紙の状態を前提とした「あ、しゃべってる」「一人だけなんだ」「あっち向いた、あ、こっち向いた」というレベルの感想(の広まり深まり)によって捉えられる種類のものだったのではないかと。
 「スゴイ落語家だ、スゴイ芸だ」という感動と「一人で座ったまま長時間しゃべってスゴイ」という感動は違う。
 前者を体験するための手続きよりも、後者によって発見された「新しい表現手段」から生まれるものへの期待を選ぶ、ということが「落語ブーム」の意味だったのだ。
 
 岡田氏の試みと、古典落語とは、並立可能だと思う。「活字媒体」という言葉に対置されるくらいな「落語媒体」が建立されたなら・・・・・・いやまだ何も始まってはいないのだから、とりあえず、今のところは、あぁなんだか楽しくなってきちゃったなぁ、と呟きながら街角を曲がるより他にないようだ。