伊藤剛から小林信彦まで(5)
(前回からのつづき)
このシリーズで何を言いたかったか、忘れてしまいました。
まあ、あの、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』で使われた「キャラの隠蔽」という言葉には、背景に「キャラ」を(「言葉」「コマ」と共に)マンガ表現の構成要素であると捉える視点があったわけです。「キャラ」「言葉」「コマ」で物語やキャラクターは表現されている、ということです。
しかし、それは必ずしも「キャラ」が物語に先行すると(伊藤剛氏は)いっているわけではないし(先行しないといっているわけでもないですが)、考えてみれば物語やキャラクターが先に出来上がっていて、そこから、「キャラ」「言葉」「コマ」に整理されていくという流れも現実にはある、というのが私の指摘で、それで「キャラの装填」という言葉にしてみたわけでした。
ここまでが前回までの話でした。
で、これからの話の流れですが、思い出すに・・・
今後マンガ表現論は、「キャラ」「言葉」「コマ」に先行する(あるいは抽出された)<物語やキャラクター>を、自身の管轄に収めることが出来るだろうか。
人はマンガばかりを読んでいるわけではなく、小説も映画も読んだり観たりしてイル。そして、マンガを読む(描く)に際して、小説・映画・・・の印象・経験を通して読む(描く)ということがアル。
そういう、各表現ジャンルが相互に補完しあうという現象に、各表現ジャンル論はどのように取り組めるだろうか。
そんなこんなを、伊藤剛氏の「キャラ」論と、小林信彦氏の喜劇人論とを対比させながら、語るという・・・・・・
多分、そういうことを、この「伊藤剛から小林信彦まで」シリーズでは言いたかったのだと思い出してくるにつれ、とりあえず、自分の限界を超えているような気もしてきましたので、とりあえず、またの機会に、ということにしたいと思います。
(とりあえず、未完)