伊藤剛から小林信彦まで(3)

前回からのつづき)

 ・・・耳男はかわいいうさぎ、だったが、科学の力によって人間と同じように言葉をしゃべり二本足で歩くようになる。耳男は、手塚治虫地底国の怪人』のなかに出てくる、そのかわいい姿が彼の存在そのものであるような、キャラ要素ムキダシのキャラクターであったが、物語はやがて「耳男は人間なのか」を問い掛けはじめ・・・ラストへ向かう過程で耳男のキャラの力は表舞台から姿を隠し影に潜るのであった。キャラの力で読者(そして作者自身)の心を作品に引き寄せておきながら、その力を、物語の一貫性のために、人間的存在という役柄の下に隠さざるを得なかった『地底国の怪人』は、後に続く「物語マンガ」における、最初の輝かしい「キャラの隠蔽」の成功例となった・・・

 ・・・というようなことが『テヅカ・イズ・デッド』では語られていた(と私は受け取っている)が、この「キャラの隠蔽」の最大の効果としてあげられるのは、

 ・マンガのキャラクターが悲劇的に死ぬことが可能となった

ということであろう。キャラの力として『テヅカ・イズ・デッド』は

 ・キャラの要素が強いキャラクターは、特定の物語(作品)から独立する力があり、様々な物語を、時には作者を違えて横断していく。

という現象を意識していた(かどうかはちょっと自信がない。私の思い込みの可能性大であ)り、またマンガ表現原理論として

 ・<キャラ = マンガ表現の基盤。>
  であるのに対して、
  <物語やキャラクター = マンガ表現によって構築されるもの。>
  である。

という話もあったので、そこら辺をつなぎあわせると、

 ・メディアに流通し複数の受け手・送り手が共有するキャラクターをもとに「この私のキャラ」という意識が発生するのは、「キャラ/キャラクター」の構造によって固有性を獲得出来ることに由来している

というような議論が展開出来るように思う。
 と、ここまでが伊藤剛理論の(私の脳味噌のレベルにあわせた)素描である。
 ここから(いままでよりもさらに)激しく自分勝手流な話になってくるのだが、「キャラの隠蔽」という言い回しは、『テヅカ・イズ・デッド』のなかでは、

  • ① 「キャラ萌え」したりもするマンガの現在を、頭から否定(無視)する種類のマンガ評論に、異を唱えたい。

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  • ② 手塚治虫を、「マンガの始祖伝説」から開放し、手塚以前から手塚以後へと連綿と続くマンガ表現史のなかの存在として位置づけたい。

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  • ③ キャラという概念の、マンガ表現のなかでの本来性・重要性を、挑発的に印象付けたい。

というような役割を果たしていたと思うのだが、この言い回しが言い表していた事態は、見方を変えれば「物語のなかにキャラを埋め込む」というふうにも見えて、つまりそれは「キャラの装填」と言い換えられるのでは、と考えてみたのである。いやいや、つまりですね、例えばマンガ創作の現場をシュミレーションしてみれば

 ・キャラ発生 → キャラクターに肉付け → 物語に適合

という流れと

 ・物語を構想 → キャラクターを設定 → キャラをひねり出す

という流れと二筋の流れがあるように思われ(まあ、実際の創作の現場ではどちらの流れとも言えたり言えなかったりするうずまき状態なのでしょうが)、前者を前提にすると「キャラの隠蔽」、後者を前提にすると「キャラの装填」という言い回しになる、と、いわば、山を地面の凸というか空の凹というかみたいな違いだが・・・
 唐突だが、相原コージ氏の作品には、キャラの装填に苦労したのではないだろうか、という(物証のない個人的)印象を受ける。吉田戦車氏の作品も(というか多くの現代ギャグマンガは)「キャラの装填」タイプだ、と思うがこちらには「わざとズレたものを装填してやる」という逆ギレみたいな手法でうまくキャラの必要性(大衆性)みたいなものと折り合いがつけられた、ような印象がある。

 うーん、話が長くなったし、夜も更けてきたので、つづきはまた次回ということで。

 次回予告。つげ義春とキャラの装填、木崎ゆきおとキャラの装填。

次回につづく)

■タイトルを「小林信彦とマンガ評論」から「伊藤剛から小林信彦まで」に変更しました(2006/7/8)