伊藤剛から小林信彦まで(2)

前回からのつづき)

 というわけで、幼稚園の父親参観に出たり、散髪に行ったりしながら、伊藤剛・著『テヅカ・イズ・デッド』を、また図書館から借りて来た。

 この本は話の持って行き方が、初読時に「うっひゃー」と実際に口に出して言ってみたぐらいにジェットコースターのような勢いと起伏があって、まず、1990年代に流行した<マンガはつまらなくなった、終わった>言説の検証という割と耳目を集めやすい話から入っておいて、この話をマンガ表現の変遷に絞りつつ、いがらしみきお氏のインタビュー(認識)と「ぼのぼの」(実践)にも触れて(←ここでこれに触れるのが巧みだ!と思いました)それから、「キャラ」という概念が登場する・・・ここまででもう十分すごいと思うが三百頁ある本のまだ半分百二十頁くらいである。
 えーと、それから、「手塚がマンガの全てを創始したわけではない」論と「創始したわけではないが」論とを検証しながら、手塚治虫地底国の怪人』で「「キャラ」が隠蔽された」という話と、「フレームの不確定性」の話とで、近代マンガ神話が解体され・・・、で、気がつくと、ここに現在へとつながる一筋のマンガ表現史という道が示されているのであった。(ナレーション、なろうなろう明日なろう(嘘))

 乗りかかった船なので「キャラ」という概念について説明してみると、例えばドラえもんというキャラクターはまあみなさんご存知のああいうキャラクターだが、「ああいうキャラクター」はマンガ作品『ドラえもん』のストーリーとかエピソードとかによって のみ 創られるのでは なく、「コレがドラえもんです」と指差せるコレ、すなわち、あの、ドラえもんの画像というか、姿かたちというか、初めてドラえもんを見た時に、または、たまたま街角や雑誌の紙面で見かけた時に、あ、ドラえもんと認められた、記号というか形象というか、ようするにアレ、にもよって創られている。それを「キャラ」と呼ぼう、という概念なのであった(ということにしておいて下さい)

でここから伊藤剛氏の視点から「キャラが隠蔽された」とみたものを「キャラが装填された」とみたらどうなるかという話をしたかったのですが、とりあえず、もう寝ます。

次回につづく)

■タイトルを「小林信彦とマンガ評論」から「伊藤剛から小林信彦まで」に変更しました(2006/7/8)