小林信彦『うらなり』の衝撃

以下の「うらなりの衝撃」という文章は、ホームページ「文化時評?」の「コラ息子」というコーナーで、2006年4月28日に発表したコラムの再録です。
「コラ息子」というコーナーは、ブログっぽいことをやろうかなと思ってやっていた企画なので、こちらのほうに持ってくることにしました。
では、どうぞ。(今回、再録するにあたって加筆訂正いたしました)

うらなりの衝撃


 小林信彦『うらなり』の登場は衝撃だった。(「文學界」二〇〇六年二月号掲載)
 濃密に面白かったからだが、個人的には、著者小林氏による、種も仕掛けもある(しかも笑いの要素も強い)小説が、突然登場したことによる衝撃であった。その「突然」という感じは、近年の著者の仕事は「コラム・エッセイ・評伝と呼ばれるジャンルに活躍の場を移した」と捉えるのが一般的なのだ、という見方(私も漫然とそう思っていました)を、軽くいなすようで、そういう著者の、決して物分りのよくない柔軟性が痛快だ。
 「皆様ご存知」の漱石『ぼっちゃん』を脇役「うらなり」の視点で描くという本編の趣向は、舞台・時代設定の妙と多層的な人物描写という合わせ技で見事に活かされ、その結果、登場人物たちは、フラット・キャラクターとラウンド・キャラクターとの間で、時に二人の作者の影を彷彿とさせながら、まるで歴史上の人物であるかのような実在感を伴って読者の前に現れ、そして唸る様な名演技をみせるのである。
 特に主人公うらなり氏の言動には、読書中、何度も膝を叩き、「らしい!」と感嘆してしまった。
 この「らしさ」は、一人称の小説をものする時に、書き手は「私らしいもの」を用意してこれを作中人物としてふさわしいように演技させる(という側面もある)ということを利用してつくられていて・・・、というふうに種明かしに挑んでみたくなる程、本編はあの手この手ではあるけれども、それが嫌味ではなく必然性があり、何よりもやはり、迫真の名演技であること、それから上演されるのが、笑いと涙の背中合わせの死闘であること、その結果、軽重虚実を併せ持った哀感が、何かセンテンスが長くなって収拾がつかなくなった、ま、今度本になるそうですから是非ご一読を。
(読後、同じ著者小林氏の『悲しい色やねん』を連想した。そういえば人物配置と物語り方が似ているかもしれない)
いろんなものを捨てて「日本人は笑えなくなった」という著者の見解からすれば、かろうじて『坊ちゃん』は残った(とりあえず現在は)ということかもしれないが・・・

本年もいろいろあったが、今のところ、この衝撃が一番の重大事件である。

「笑うわけにいかなかった。渾名は私のその後の人生を予告しているかのようであった。」(小林信彦『うらなり』)