「時間の流れは早い」という表現

 宇野常寛ゼロ年代の想像力』、第六回まで(SFマガジン2007.7月号〜12月号)読んだ。いやー、これは、面白い。
 おもわず「はてな」を脱会したくなる面白さ。
 「宇野常寛」という才能は、優れてジャーナリスティックだと思い、興奮して
「これは、宮武外骨山本夏彦に匹敵するのではないか」
 と騒いでいたところ、家人曰く
「それって性格が悪いってこと?」
 そんなことは決してない(たぶん) 
 「優れてジャーナリスティック」の「優れ」っぷりとは・・・ニックネームをつけるのが上手い、要約がうまい、ものした文章の中の固有名詞がまるで普通名詞のようにみえる、etc

 この、極めて刺激的な評論『ゼロ年代の想像力』を、遠藤誉『中国動漫新人類』を補助線にして、森嶋通夫の言説(「上部から下部へ、下部から上部へ」論、社会的インフラ構築を基にした広域共同体構想、等)と絡めてみたい、という欲望に駆られるが、当面駆られるだけに留めておいて、無駄話を一席。

 『ゼロ年代の想像力』の第一回で、

 しかし、今時の時代の流れはそんなにゆるやかじゃない。

 (SFマガジン2007.7月号 p96)

 
 という文章があり、これが、なんとなく、真心ブラザーズの歌う、

 時間の流れは早くて いつでも追いつけやしない

 真心ブラザーズ(作詞 YO-KING)『この愛は始まってもいない』

 を聴いた時の「あれ?」という感じに近い気がした。
 つまり、ここで言われている「今時」や「いつでも」における、「今」「時」「いつ」とは、<時間(時代)の流れ>の、内にあるのか外にあるのか?

 うーん。

 時間というやつはいつまで経っても慣れません。

 川上未映子の純粋悲性批判 (2008.03.21 乙女の祈りと迫力主義者) より

 は、意図的な冗談的表現だ、と解釈し易いが・・・