俺は待ってるぜ 〜いしかわじゅん『漫画ノート』を読んで〜
テレビドラマ『薔薇のない花屋』は結局みていないが、番組で流れている(らしい)山下達郎『ずっと一緒さ』は、ラジオから録音したものを何度も聞いている。
歌の山場で繰り返される "ずっと" という言葉に、年輪、風雪、時間の重みというか、そういう「長いもの」が、かぶさって聞こえてくるところが、老獪な、という言葉をあえていい意味として使ってみたくなるくらい、いい。ぐわーっと盛り上がっていく歌謡の力強さに、重荷を背負ったまま青空へ逆さまに落ちていくような高揚を感じる。
街中の屋根が飛んだ!みたいな高揚。
メリメリメリって大地が浮き上がってくるような高揚。
言い過ぎた。
まあ、この歌の、大切な時間の切実さと「人間が何かを好きでいる」ことの大きさ、その二つが重なり合うような感じが好きなのだ。
しかも。
「人間が何かを好きでいる」
その「何か」を「恋人」以外のものに置き換えてみたくなる。
それは、人によって、音楽や小説、映画、落語、あるいは野球かもしくは学問かもしれない。
しかし、私にとって、一番グッとくる「何か」とはマンガであった。
『ずっと一緒さ』を口ずさ(むのも難しい歌だが恥ずかしながらそうして)みながら、辿り着いたそんな場所で(勝手に)感銘を受けている。
それは、いしかわじゅん『漫画ノート』を最近読んだことが影響しているのかも知れない。
- 作者: いしかわじゅん
- 出版社/メーカー: バジリコ
- 発売日: 2008/01/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 2人 クリック: 42回
- この商品を含むブログ (48件) を見る
『漫画ノート』に収められた百八十数篇の一つ一つは、マンガ家いしかわじゅんが、マンガを読み、マンガ家に会い、それらの体験から汲みあげた意味を、丁寧に吟味して、明瞭な文章に編みあげて出来た、読み物である。
「マンガを好きでいる」
そこを軸にして、読み応えのある文章を書くのは容易なことではない。
第一に、マンガは広大である。マンガの領域は、一つの観点から見渡せる程、狭くない。「好き」「嫌い」でひとくくりに把握出来る単位としては「マンガ」は広すぎる。そして広大なマンガの野に出て、自分の「好き」を見失わないことは難しい。
第二に、「好き」が、一番、盛り上がるのは、「特にどうということもない」状態から「あ、これは、好きだ」と気づいていく時である。ソコを後から言葉にするのは、自分ごととは言いながら難しい。かといって、自分ごとに難しがって苦しんでいる姿は、他人からみて醜いものである。「何が好き?」という質問に、自分でもピンとこない言葉を並べる羽目になる由縁である。
しかし、いしかわじゅん氏には「いしかわじゅん」がついている。文章でイラストでマンガで、いしかわじゅん氏は「いしかわじゅん」というタレント(才能)を演出し続けて来た。その熟練の技が、マンガ語りに活かされている。
かといって『漫画ノート』は、「いしかわじゅん」の芸にのみに終始しない。いしかわじゅん氏は、「いしかわじゅん」という自分を通して、マンガそのものに近づこうとする。
その姿勢に、マンガ家の心意気を感じる。
いくら「私はマンガが好き」でも、「マンガが私を好き」だとは限らない。そのことを思い知らされる戦場で、奪い取った戦果が「マンガ」であることを、十二分に知り尽くしたマンガ家が、マンガに対して抱く、念、を感じる。
「いしかわじゅん」を通して表現された本書を読んで、私は、無限のように広い「マンガ」における「自分一人」という単位の重要性を再認識した。
どんなにマンガが、まるで海のように広大無辺になろうとも、自分一人という器を用いることでしかその水は汲めない。限りある自分の時間のなかでしかマンガを眺めることは出来ないのである。マンガの方にしてみても、全体としてはどこまでも拡大拡散して行きながら、誰か「自分一人」に読まれることを、マンガ自身の存在基盤にせざるを得ない。
『漫画ノート』に記されたいろいろなマンガとの様々な交流には、長い時間がかけられている。
長い時間をかける。
「信じて待つ」。
いしかわじゅんは、長い時間をかけて、待つ。
子供の頃読んだマンガが再び現在の興味の対象に入る日を。拭い去れない違和感に意味が与えられる日を。忘れられない何かが消えずによみがえる日を。駅ビルにあった小さい書店で、沖縄の中華料理屋で、病室で、喫茶店で。初めて、再び、出会う日を。
待つために出会う。そして出会いを待つ。「好きでいる」とは、そういうことだ。
中学高校の頃、高知県高知市内のぷくぷく書店やたんぽぽ書店で、出会ったマンガが私にマンガの意味を思い知らせてくれた。どちらかといえば吾妻派だった中学生にとって、だからこそ、いしかわじゅんマンガは無視出来ない光を放つ星団であった。
マンガの意味を言葉に出来る才能は、これからも、ふたたび、私の前に現れ、目に物を見せてくれるに違いない。あるいは、マンガそのものを。
私は、待っている。