「萌え」論

 えっと、「萌え」論、です。
 「萌え」を「好きになる」という感情が様式化されたものだ、としておいてから「では、それは、どのように様式化されたものなのか」と考えていくのが私の脳内における「萌え」論展開の順当な道筋なのですが、最近、そこで、少し思考のハンドルを切りましてですね、
「「嫌いになる」という感情も何か様式化されたりはしないものだろうか」
 と考えたわけです。
 みんなで車座になって「あの糞野郎が憎い」「憎いよ」と誰かを罵るだけ罵って盛り上がる、しかも愉快、ということはいくらもあることなので、「嫌いになる」という感情が新たな形で様式化されみんなに共有される、のは、「ありかな」という気もします。
 これを、仮に「汚え(オエ)」としておきましょう。

1.「汚え」とは何か
 そうしてみると、政治家や犯罪者に関する報道は、「酷い」「許しがたい」「やめろ」と言えるところに醍醐味がある、その醍醐味を「充実した嫌悪感」と感じた時に
「汚え汚え〜」
 と言うこともあり得る、でしょうし、また、「人間の暗部を描く」ことを「よし」とする価値観もあるわけだから、そこに、
「キャラ汚え」
 が成立する余地もある、のではないか、と思われるわけです。
 昨今の現象にかこつけてみれば、たとえば、ネット界における「炎上」であるとか、マスコミにおけるダラダラと一つ事をバッシングし続ける報道のパターンなどがハードな「汚え」、また、いわゆるテレビお笑いにおけるはっきり「好き」とは言い難い存在をわざとピックアップし続けてある期間を過ぎたら急に捨て去るような消費の仕方をするのなんかがソフトな「汚え」(軽やかな「嫌だネ」感の享受)なんじゃないかと、そのような現象を招く風潮の影に「汚え」への需要がある、と言えなくもなく思われます。
 ついでに言うと、いわゆる大人の価値観には「少し「汚え」が入ってないと評価しない」という側面があると思います。


2.受容の位置づけ
 ただし、「汚え」は「萌え」のようには様式化出来ないでしょう。
 「汚え」は「嫌なら見なければいい」と言われれば「確かにその通り」となりやすい、つまり「汚え」の内容(嫌い)に対しては「見ない」という形で受容するのが自然と思われやすかろう、と思います。
 「嫌だけど見ざるを得ないんだ」という「汚え」が成立する為の必然性は、なかなか共有されにくい(共有のされ方の足並みが揃わない)、そして、よしんば共有されたとしても「見ざるを得ない」という価値観は「汚え」と背反してしまう、と思います。
 それに対して、「萌え」は、「好きだから見ないではいられない」という形で内容(好き)と受容(見る)とが背反せず一体化しているのではないでしょうか。
 整理すると「汚え」と「萌え」とは
 ・「汚え」は受容を組み込めない(=内容(嫌い)までが「汚え」)
 ・「萌え」は受容を組み込める(=内容(好き)と受容(見る)込みで「萌え」)
という相違があると考えます。

3.キャラクター「X」
 ちょっと考えの翼というか風呂敷というかを広げすぎたので、もう少し、既存の「萌え」と対応させて「汚え」を考えてみます。
 たとえば、男A(三十三歳)がアニメキャラ「X」に萌えていたとします。男Aには姪B(小学三年生)がいて、彼女もアニメキャラ「X」が好きなわけです。それで、姪Bは「X」が好きであるにもかかわらず、男Aの机の引き出しの奥にしまってあるマンガのなかの「X」は死ぬほど「汚え」だ、という場合。
 同じ対象XがAには「萌え」でもBには「汚え」である場合です。
 この場合、「Aの萌え」は「Aの受容」と一体化した形で「X」に象徴されそうな気配がありますが、一方、「Bの汚え」は「Bの受容」とは密接でも「X」も含めて一体化されるかどうかは疑問、という印象です。
 ただし、今、気がついたのですから、「男Aの机の引き出しの奥にしまってあるマンガ」がエロマンガではなくて、非常に批評性に富んだパロディマンガである場合もありますから・・・・・・
 それから先は、まだ考えてません・・・・・・
 
 えっと、「萌え」論、でした。