松本人志作品最新作・映画『大日本人』について

 松本人志氏作品は、かつていろいろなものを開拓し開墾して来た。もっとも、笑いを生み出す分野では「開拓し開墾する」ことは珍しくない。
 開拓も開墾も、字引によれば「土地を開いて田畑とすること」を意味する言葉だが、両語を比較すると、開拓の方が「荒地を開いて、新分野を切り開いて」という方向の語意が強く、開墾の方は「耕して、人にとって実りをもたらす土地に改良して」という方向の語意が強い・・・ということにして、本論では、「人の踏み込まない荒野に分け入り、新分野を開く」ことを開拓、「元は荒野だった土地を耕し、多くの人にとって実りの多い場所に改良する」ことを開墾、とする。
 開拓が<前衛/特殊/マニアック>的、開墾が<後衛/普及/メジャー>的、とはいえ、凡庸な野心で開拓が実践されたり、非凡な発想で開墾が行われたり、また、誰もが後追い出来る開拓もあり、誰にもまねできない開墾もあるのも又事実である。

 ここから先、映画『大日本人』の内容を書くので、未見の人は注意。
 映画『大日本人』は、どちらかというと、私には、開墾の鮮やかさの印象が圧倒的であった。
 それはつまり、『大日本人』の中の風景は、過去の松本人志作品が開拓した土地の上に建てられていて、しかも、「あの土地をこう耕したか」という驚きに満ちていた、ということである。(※1)
 まず、冒頭部分での「野良」という単語へのリアクションに、『VISUALBUM』の医者・患者コントにあった名フレーズ「ある意味みんな患者」云々への目配せを感じる。『VISUALBUM』では、綱渡り的なアドリブ感を伴っていた言い回しが、『大日本人』では、主人公を演出する台詞として物語に組み込まれている。
 また、冷淡なインタビュアーに都合の悪いことを聞かれて黙り込んだり、VTRを見ながら凝固沈黙する主人公の姿には、『働くおっさん劇場』を連想した。
 それから、一個のフィクションを、煮染めたような現代日本社会を舞台に「現実に存在したとしたらどうなるか」を濃密にシミュレーションしながら最後に覆すという全体の構成は、『頭頭』に近似しているが、『大日本人』の方が嘘の具体化の一つ一つがもっと<画になって>いて、特に、巨大化が代々の家業という設定で「まるで某超人のような身体の模様が実は刺青」という画竜点睛なアイデアが凄い。また、女性マネージャーの事大主義、閑職に安住した役人のどうでもいい仕事振り、四代目大日本人の老人具合から、そば屋のおやじの何でもなさや地方妻的バーのマダムの気安さに至るまで、人物描写の「悲しいくらいにいかにもそういう感じ」のツボの突き方も、松本リアリズムの集大成ともいうべき完成度である。
 「別に、映画が撮りたい、わけじゃない」という自意識を感じないではないし、そこに反発すると「これは映画じゃない」という感想にもなると思うが、主人公にいわゆる関西弁をしゃべらせない等、表現方法に対する配慮(計算)は深く、「酒強いね」に「なに言ってるんだよ、ぼくは何でも強いんだよ」は、なかなか映画(1時間以上ある映像作品)でないと引き出すのが難しい(泣き笑い的な)効果だと思う。もっと単純に「映画だから大きくなる」というのは「正解」だろう。
 つげ義春リアリズムの宿』のような、憧れやロマンが現実を前にあっけなく踏みにじられるおかしさ哀しさは、松本人志作品に共通して流れる主調だと思うが、そのリアリズムは、いわゆる関西的本音趣味と調和しつつも、時々、生理的なレベルで生々しいフィクションを生み出し、そしてその存在感が「憧れやロマン」も「現実」も相対化してしまうこともある(※2)ところに松本人志作品の最大の特色があると思う。
 吉本興業でつくるのだから、サービスとして、巨大獣に人間の顔をつけたのではないかと私は勝手に思っているが、そういう「松本人志が映画をつくる」ことで期待されるサービスを、これまた予想外の形でやってみてしまう、そういう隠し味も『大日本人』にはあると思うがどうでしょうか。(※3)

 (※1)私がダウンタウンを(というかテレビを)比較的よく見ていたのは1993年から1997年頃。それ以外はテレビだと、録画していた知人が貸してくれた『ワールドダウンタウン』が面白かった。『働くおっさん劇場』は一回分しかみてない。『ひとりごっつ』もちゃんとみてない。『すべらない話』は最近のものを二回分みたくらい。ビデオ・DVD作品でみたのは『ダウンタウンの流』『寸止め海峡(仮)』『頭頭』『VISUALBUM
 (※2)出典を忘れてしまった(何かの雑誌でダウンタウンの特集をした時だったと思う)が、故・ナンシー関先生の文章に、コントで松本人志が演ずるキャラクターの「生理的な生々しさ」に注目したものがあったと記憶する。本論の見方はその指摘に影響を受けている。
 (※3)松本人志氏自身は、様々な人の才能を引き寄せ、結果、「松本人志作品」を主催する能力に長けているのではないか、と私は推測している。そのため本論では、「松本人志は」とは書かず「松本人志作品は」という書き方を心がけた。「松本人志作品」の全ての要素を誰か特定の人物一人の天才性に集約する考えは、早晩ずっこける危険性が高い、ような気がする。

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2007/6/19 修正