山田太一ドラマと芝浜と松本人志

 録画していた『星ひとつの夜』(金曜プレステージ山田太一ドラマスペシャル)を放映日の翌日2007年5月26日にみていて、個人的に面白かったのは、このテレビドラマをみる直前に読んでいた『落語の種明かし』(中込重明岩波書店、2004年06月)という本・・・・・・これは、小谷野敦先生のブログで知った・・・・・・の「芝浜」論中に出てくる正直説話とテレビドラマとが、似ている、ウオー、という偶然に遭遇したからであった。
 中込重明『落語の種明かし』の第二章にある「芝浜」によると

 説話の中において、「正直」とは単に抽象的な概念や、嘘をつかないというような謹厳な行為のみを指すにあらず、他人の物、特に金品・財布を拾った者が、自らの物にせず、本物の持ち主に返すという具体的な行為をも、「正直」と言ったのである。

 とある。そして、そのような近世の正直説話においては、

 

・・・正直にはみかえりが約束されている場合が多かった。士分に取り立てられるとか、御褒美を賜るとか、一方ならない御加護を受け富裕になる、改めて大金を手にする等々である。これらが言わば、正直の徳なのであった。


 というわけで、そのように、説話の視野から、著者・中込重明氏は人情噺「芝浜」を、しっかりものの女房の機転によって<拾った大金を使う>という罪から免れた話、でもあった、と論じているぞ・・・・・・と思いつつ進行していた読書を離れて、観た、テレビドラマ『星ひとつの夜』では、渡辺謙演じる清掃夫が、清掃中に拾った、ポケットのなかに万札の束が無造作につっこまれたままのコートを、<着服しないで、正直に>、持ち主の謎の富豪青年(美青年か)に届けているのであった。
 とはいえ、「近世説話にうかがえる日本人の心が現代の山田太一ドラマにも見出せる」とはあまりにも民俗学的世迷言に過ぎるので、そんなことを言う暇があったら、むしろ、このアナロジーを他生の縁として、テレビドラマ『星ひとつの夜』における、「出会う事が無い二人」の設定の妙、その二人の出会い方の妙、また出会ってからの世間に類の無い奇妙な人間関係の妙、これらの妙味を、他の「他人の物を拾う」話からも拾えないか、と考えてみる方が面白い。
 そのあとの『星ひとつの夜』は、同僚の老人の業の深さが開陳されたところでまたウオーと(私は)盛り上がったが、そのあとに出てくるミステリー要素を愚直に解決されるまでみたいと思わせられながら、まあ、余韻をもって終わった。
 もっと残酷な展開としては・・・・・・と妄想しながらハイスミス「ふくろうの叫び」を連想。こちらの方は「他人の物を拾う」話ではないし、「男と女」ではありますが、これまた、出会う事が無い二人、その二人の出会い方、また出会ってからの世間に類の無い奇妙な人間関係、ということで。ただし後味は痺れるほど、悪い。

 (蛇足)松本人志がインタビューされているので拾ったR25(2007.5.31 NO.144)の表紙に「正直すぎ!」と書いてあった。あはは。そして、このブログの文章を書いていたがために、今日の笑っていいともへの松本人志の出演を見逃してしまった。くそっ。