路上の途上で

 その夜もわたくしは、仕事帰りの、やや疲れを孕んだ足取りを、通い慣れた駅前の路上に、運んでおりました。
 程好く更けた夜の巷には、それなりにさまざまな人間模様が、繰り広げられるでもなく繰り広げられておりましたが、わたくしはそれらの人生劇場を、首尾よく視界の片隅に押し込んだまま粛々と歩を進めるうちにやがてそれらが忘却の彼岸へ次々と流れ去っていくのを見送ることに、幸か不幸か、成功し続けておりました。

「それで歳は、いくつなの」

 その声が、視界の隅の劇場から、ふいに聞こえて来た時も、わたくしはわたくしの岸辺を、今夜も大過なく歩き果せることに、何の疑問も、不安も、感じてはおりませんでした。
 確かに、その声の主である初老の女性は道端にしゃがみ込んではおりましたが、ある種の人生の旅人たちの腰が、駅前の路上に容易に長時間下ろされやすいことは比較的よく知られているといってもよい事柄であり、しかも、この初老の女性が質問を投げかけている相手の者が、彼女と同じように地面に座り込み、楽器のようなものを手にした二人の若い男女であってみれば、それは「路上パフォーマンスを通じた魂の交流の一場面」とでも言い得るような、どちらかというと「よくある」とか「ありふれた」とか評することの方が妥当なような光景であった、かどうかの当否はさておくにしても、とりあえず、彼らよりも足元のタイル模様の方に、わたくしの視界がより多く割かれていたことは、紛れも無い事実で御座いました。

「ぼくが二十二で、こっちが一個下です」

 ところが、快活な、その回答を耳にした時、わたくしは、はっと眠りから覚めるような心持を覚えたのです。
 そしてその声の到来を境に、目の端に捉えられていた彼らに関する印象が、脳の奥の暗闇に流れ去ろうとしていたその刹那、ちょっと待てと引き戻された形で、わたくしの意識の表通りへ現れ出たのでありました。
 ひとつは、若い男の顔に浮かんだ満面の笑みでした。
 その表情の、あまりの屈託の無い、無垢な、印象が、恐ろしい違和感を伴ってわたくしに迫ってきたのでした。
 もうひとつは、楽器でした。
 ことここに至って、はっきり言葉になって脳裏に浮かんきた、その名称は

「縦笛」

いや、遥か過去の学生時代、アマリリスの響きと共に思い起こされる、それは

「リコーダー」

でした。
 
 この二つの事実を前に、遂にわたくしははっきりと「不吉な前兆」を感じておりました。
 しかし、その時、わたくしは彼らを背後にして、もう、二三十歩は歩いており、その身は既に、駅前駐輪区画の手前にまで来ておりました。あと、四五六歩歩けば、やがて自身の自転車に行き当たるでしょう。そして、自宅の方角へ向かって、彼らから、恐らくは永遠に、遠ざかり去る運命にあったのです。
 その時でした。

 ぴぴょろろろー ぴぴょろー
 わたくしの歩は、そのやけにアップテンポな強い響きに、急停止させられました。しかも、その笛の音の出所に向かって、遥か後方を振り仰ぐ衝動を、わたくしは抑えることが出来ませんでした。

 ぴぴょろろぴぴょぴょぴょー
 それは、まぎれもなく「もののけ姫」の曲で御座いました。

 自転車で随分遠く離れたにも係らずまだ聴こえて来る哀切な響きを耳に、なぜか、わたくしの心の中には、「日本の民俗」という文字が浮かび上がっているのでありました。