「書名を読む」の修正

 HP文化時評?の「書名を読む」の第3回「真空管アンプと喜多さんの音響道中膝栗毛」(2006.05.06)を修正。文章を直しただけで内容は変わっていません。

 ・表紙
  ⇒書名を読む
   http://www.geocities.jp/bjihyo/book/top_book.html
  ⇒第三回

 我ながらご苦労なことである。以下に修正前の文章を残しておく。
 


真空管アンプと喜多さんの音響道中膝栗毛」
伊藤喜多男(誠文堂新光社

人生を 旅になぞらえ 途中下車

のっけから句をひねってしまいましたが、実は、何も付言することはない、という気持ちの方が強いのです。

著者伊藤喜多男氏はその道では大変に高名な方ですが(ちょっと検索エンジンを操ってみて私は思い知りました)、そもそもソノ道もアノ道もなく人間として大きな存在であったことは、本書を読めば十分に了解されます。しかし、私にとって幸福だったのはむしろ、伊藤喜多男氏を、真空管アンプを、音響を、まったく知らずに白紙の状態で本書名を目に出来たことでしょう。
伊藤喜多男氏を、真空管アンプを、音響を、まったく知らない人間に本書名をみせたらどうなるか。
思わず「そんなことをして大丈夫か」といいたくなるような、戦慄すべき試みの結果が私の幸福を彩っているのです。

本書名を前にして、私の心は、数年前の昼下がり、そぞろ歩きのつれづれに何の気もなく立ち寄った古本屋の一隅に、また立ち帰るのです。そこで初めて本書名に接して、私がいかなる愉快(水木しげる先生風に「ゆくわい」と発音して頂きたい)の感に打たれたかお察し頂きたい。そこに何も付け加えたくない、「只、吟味すべし」という心境を謳歌したい、それが人情というものでしょう。

書名が、書物と読者とを結ぶ架け橋であるとするならば、架け橋はさまざまな事前情報によって補強されているのが昨今のならいですが、その点、本書名は、補強ゼロで、私の目に飛び込み心の中に屹立したのでした。
それは人と本との、理想的な出会い、といってもよいのではないでしょうか。

しかし専門的知識の有無を問わず、「真空管アンプ」「音響」という言葉の背後にアナザー・ワールドが広がっている感触を、注意深い読・書名・子ならつかみとるでしょう。その世界を「あなたの知らない世界」として提示せずに、おなじみの「膝栗毛」を持ってきて戯れるところに、本書名の真骨頂があると言えます。

とはいえ、掛け値なしの門外漢である私は「真空管アンプ」という言葉自体のインパクトに圧倒されないではいられません。どんなに常日頃から真空管アンプに親しんでいたとしても、「真空管アンプ」と声に出した途端に全ての日常性が転覆するのではないでしょうか。何か、言霊が重い、ような気さえ致します。

とかなんとか、やはりおしゃべりが過ぎてしまったようです。贅言は水に流し、虚心に、同じ著者のもう一冊の書名を眺め、フェードアウトすることに致しましょう。ご清聴ありがとうございました。


真空管アンプと喜多さんの続音響道中膝栗毛」
伊藤喜多男(誠文堂新光社

2006.05.06/作成